「本初。何を騒いでいる」

曹操の笑い声は結構屋敷に響いたようだ。袁紹は、通りかかったおじの袁隗に咎められた。

「すみません、おじ上……」

袁隗は朝廷に仕える身だが、この葬儀の為に休暇を取り、汝陽に戻ってきていた。
ちらりと曹操に眼をやる。
人に厳しい印象を与える男であった。眼光は鋭く、独特の迫力を持つ。

「そちらは?」

「ショウの曹家のご子息です」

曹操がとっさに身体をこわばらせた。
嘲笑を浴びせられるとでも思ったのだろうか。

「左様か」

だが袁隗はその名に反応を示しはしない。
ショウの曹家を知らぬはずもないが、袁術のような価値観の持ち主ではないのである。
代わりに社交辞令的な挨拶もしなかった。

「すまぬが本初には、まだ今日のうちにやらねばならぬことがある。 連れてゆくが、悪く思われぬよう」

葬儀はまだ終わっていない。棺は屋敷内にあり、もう幾度目かになる儀式に、 喪主は必ず参加しなければならない。
曹操は無言で、ひとつ頭を下げた。

「では本初、舎の方へ」

「はい」

舎とは棺の仮安置してある場所を指す。
袁隗は足早に去っていった。

「すまないが、この部屋で休ん でおいてくれ。寝室には家の者が案内するから」

「ああ……」

曹操の表情は少し不安げに見える。
ひとりで放っておかれることに、不安を感じているのかもしれない。

「……夜中に遊びにいってもいいか?」

「いいけど……。あんたはいいのかよ?」

友人同士が同じ部屋で、或いは同じ牀の上で寝て、寝入るまでの時間に会話を 楽しむ。それはごく普通のことだ。
だが喪主にはいろいろと義務がある。自分の相手をしている暇などあるのか。
曹操はそう問いたかったのだろう。

「いいんだ」

笑いかけてから、袁隗の後を追ってその部屋を離れた。



袁紹はこれから、3年の喪に服する。

しばらくは官に就きたくないと思っていたから、それは就官を断る絶好の口実となった。
だが服喪期間中は、郷里を出ることは出来ない。
その間に、曹操が自分からまた訪ねてきてくれるとは思わなかった。

だから少々無理をしても、今夜のうちにもう少し語り合っておきたかった。





  *  *




しかし袁紹は、結局舎で一晩を明かさねばならないようになってしまった。
外出したことを袁隗に遠回りに咎められ、 曹操のところに行きたいなどとは、とても言い出せる雰囲気ではなかったのだ。

曹操には、できればもうしばらく逗留して欲しいと、侍女をやって伝えさせておいた。
けれども本人が望まないのなら、明日帰りの馬車を用意させるつもりである。

(やっぱり無理だろうなあ……)

曹操にとってこの家の居心地は、決して良くはないだろう。
居れば目立つ。もしまた袁術あたりが曹操の姿を見つけたら、次はもっと厄介な事に なるかもしれない。
引きとめることに無理があるのだ。

ふと、必要以上に曹操にこだわっている自分に気付いて、袁紹はすこし笑った。

彼と親しくなろうとすれば、家の者がいい顔をしないだろう。
それでもこだわるのは、何ギョウが言った言葉のせいか、それともただの、一族への反発心か。

そんなもの、と袁紹は呟いた。

友として付き合えるかもしれない、と思ったのだ。
それは美しい感情であるべきだ。くだらない理屈など、つける必要はない。





  *  *




軽く扉を叩く音がして、開いた扉の向こうに、曹操が姿をあらわした。

「吉利。どうしてここへ?」

曹操はすこし首をかしげて、後ろを顎で示しながら、言う。

「ちょっと話したいことがあったから、このねーちゃんに無理やり案内させたんだ。おれみたいなのを入れちゃいけない 場所かもしれないが、この人のせいじゃないから、責めないでやってくれ」

見れば先ほどの侍女が、不安げな面持ちでその後ろに佇んでいた。
袁紹に頭を下げる
袁紹は微笑んで言った。

「そんなことは大丈夫だ。どうぞ入ってくれ」

中に導こうとするが、曹操はそれ以上、部屋の中に入ろうとはしなかった。
袁紹からすこし顔をそむけて、言いにくそうに言う。

「おれ、明日の朝帰るから」

「そうか……」

予想はしていたが、少し落胆した。

「居たっていいんだけど、あんた、しばらくは忙しいだろ?  おれもあんまり退屈だと、ここん家の人たちと揉め事おこしたりして、迷惑かける かもしんないから」

彼の言うことは正しい。残っていてもらっても、ちゃんと相手が出来るかどうか、 当の袁紹にも自信がないのだ。

「黙って帰るのも何だから、いちおう、顔見て言っとこうかと思って」

「……そうだな、無理を言って済まなかった」

案外律儀なところのある少年だ。
わがままを言った自分が申し訳なく思って、軽く頭を下げた。

「や、やめてくれよ。どうもむず痒くなってきてたまんねぇよ」

曹操は、叱られた子犬のように情けない顔をした。
やはりとっつきの悪さほども、悪い性格の持ち主ではない。むしろ善良なのかもしれない。

自分には見る目があったというような気がして、袁紹は嬉しくなった。

「少し、話をしていかないか?」

侍女に目線で、下がるよう伝える。
曹操が、ちらりと棺に目をやった。

「話し込むような場所じゃねぇだろ、ここ」

「少しならば大丈夫さ」

「……ていうかあんた、おれになんかこだわってる場合かよ」

「おれになんか、って、卑屈になるのはよくないと思う」

曹操はいつも何かしら自嘲的であったり、卑屈な態度を取ったりする。
それが気に入らなかった。

「いや、そういう話はおいといて……」

ひとつため息をついて、曹操が棺を指差す。

「あんたちょっと、悲しんでなさすぎやしねぇか、ってこと。あそこに居んの、あんたの 母さんなんだろ?」

ああ、と今度は袁紹がため息をついた。

「確かに、自分の母が亡くなったのに、友の相手ばかりしたがるのは奇妙に思える だろうな……」

棺を見つめる。
その中にいる人を、確かに「母」と呼んでいたけれど。

「わたしにとって、母と思える人は、他の人なんだ」

曹操がかすかに眉を動かす。

「生母じゃない、ってこと?」

「それもあるけど……。ほんの四、五年前まで、おばだった人だからね。悲しくない ということはないんだけど、まだ戸惑う気持ちの方が大きい」

「……なんかややこしい事情がありそうだな」

「そうなんだ。ちょっと長い話になるけど、聞いてくれるか?」





  *  *




袁紹がその中にいる人を「母」と呼ぶようになって五年が経つ。
その人の夫袁成は、袁隗ら兄弟の二番目の兄だが、若くして死んだ。

袁紹は三男である袁逢の家で育った。
彼自身、自分の父は袁逢で、母はその側室のひとりだとずっと思っていた。
それが冠礼を迎えようという頃に突然、「実は袁成の遺子である」と告げられたのである。

真実であるのか、袁紹には分からない。
母、と呼んでいたその人に聞いても、ただ寂しげに笑うばかりで、明確な否定も、 肯定もなかった。

袁成ら四人の兄弟は、上の二人が子のないままに夭折している。だから頭領の座は袁逢が継いだ。
そして次の代は、袁逢の嫡子、袁術が一族の主となる、と皆思っていた。
袁紹は袁術よりも年長だが庶子だ。袁術とは立場が違う。

しかし袁紹が実は袁成の子であるということが分かってから、彼らの立場は一転した。
冠礼を迎えると同時に、袁紹は袁逢から頭領の座を譲られ、いきなり一族全ての頂点に立つという、 重要な責務を負わされることになった。
自分が次の頭領だと当然のように思っていた袁術は、一族の成員の一人、という 立場に転落した。

それ以来、二人の関係はぎくしゃくしている。
袁術はもともと癇癪持ちの気味がある男だったが、最近では頻繁に問題を起こすようになった。
袁紹のことを影で「養子」と呼んで蔑んでいるとも聞く。

だが袁紹は、袁術を責める気にはならなかった。
自分自身もいまだに当惑しているのである。約束されていた地位を奪われたと思っているであろう 袁術に、荒れるなという方が無理であろう。

袁紹は自分が袁成の子だという話を疑っている。

先の一族の頭領は袁逢で、今は袁紹ということになっているが、それは名目だけの話で、 実質は袁隗がずっと主を勤めている、と言っていい。
袁逢は人が良く、魑魅魍魎のたむろする今の朝廷で、駆け引きに勝てるような 能力はなかった。
袁紹は無官の若輩である。
対して袁隗は、明晰な頭脳と、表にも裏にも広い人脈を持っている。実力があるのだ。

その袁隗が、袁術を嫌っていた。
袁隗は無私の人だ。単なる個人的な好悪の感情などで、 軽軽しく決断を下すようなことはなかった。
おそらく派手好きで虚栄心が強い袁術の性格では、一族を任せられないと 思ったのだろう。

だから自分の子を頭領にしようなどということは思わずに、袁逢の庶子の中から、 これと思う者を選び、さらに袁術と彼を支持する一族の 者から異論が出ないよう、袁成の庶子にするという細工をした。
確証はないが、きっとそれが真相だ。

袁術より年長の庶子は自分だけではなかったから、白羽の矢を立てられたことを光栄と 思うべきなのかもしれない。
けれどもやはりどこかに、割り切れない思いは残る。
結局のところ自分は、そうやって簡単に出生まで変えられてしまうような、おじに とって都合のいい駒のひとつに過ぎないのではないか。

自分の意志など、誰も忖度してはくれないのではないか、と。





  *  *




袁紹の言葉が途切れても、曹操はしばらく黙っていたが、 やがて、軽く宙を見上げて、ため息をついた。

「……あんたの言いたいこと、分かんなくもないよ」

頭を掻きながら、言う。

「けど、しゃーねぇよな。頑張ってくれる男だって、 そう見込まれたから回ってきた役目なんだろうし」

「……私は公路よりも操りやすい。そう思われただけかもしれない」

出てきた台詞に自分で驚いた。
意識はしていなかったが、そのことが、心の底に一番引っかかっていたのかもしれない。

自分は都合がいいとやつだと思って選ばれた、傀儡なのだと。
ただ袁隗の思い通りに動かされるためだけに、頭領の座を与えられたのだと。

だがそんな袁紹の言葉を、曹操はきれいに否定した。

「そりゃねぇさ。だってその、四番目のおじさんとかって人は、あんたよりずっと 年上で、かつ家のことが一番大事なんだろ?  あんまり頼んないのを選んだら、自分が死んじまった後が困るじゃねぇか」

「そういう考え方もあるか……」

目頭が、熱くなる。
情けない。九も年下の子供に慰められて、今自分は涙を流しそうになっている。

「ありがとう。気を遣ってくれてるんだな……」

「やめろってそういうの……」

曹操は本当にきまりが悪そうだ。

「な、情けないな、わたしは……いつもはこんなじゃないんだが……」

涙をこらえようとすると、言葉が出なくなる。

「……いろいろあったから、ちょっと不安定になってるだけだろ」

「……すまない、ありがとう……」

「だからよせって……」

泣きはしなかったが、それきり喋れなくなった。

曹操もまた黙ったまま、ずっと傍らに立っていてくれた。




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