通された部屋は簡素であったが、洗練されてとても美しかった。
曹操は思わず部屋中を見回した。
ごく普通に見えても、とてつもなく高級な調度が置かれている。
贅沢に慣れた曹操の目には、それがよく見て取れた。
曹家も来賓用の部屋などには惜しみなく金を使っていたし、見た目にもここより
ずっと豪華にしていたが、かかっている費用はこちらの方が上かもしれない。
曹家はまだまだ成金の域を越えないから、どうしても見た目の豪奢さを選んでしまう。
田舎くさくて無粋な話だ。こういうのを見せ付けられると、それを痛感させられる。
曹操は芸術一般にとても関心が強い。この歳にして、建築物や内装などにもかなり目が利く。
昼に袁家に来た時は、多すぎる客が邪魔になったせいか、建物の様子もよく見ていなかったが、
さすがに名族である。この趣味の良さは、何代も社会の上層にいなければ養えないものだろう。
「どうした?」
思わず足が止まってしまっている曹操の方を、袁紹が振り向く。
その瀟洒な容姿が、部屋の閑静な雰囲気に見事に溶け込んで、一幅の絵のようだ。
(喪服じゃないといいんだけどなぁ…)
喪主の着るものは目の粗い、粗末な生地で作られるのが慣わしだ。
しかし袁紹のような男には、粗雑な衣装は似合わない。
豪奢である必要はないが、繊細でなくては。
「なにを見ているんだ?」
袁紹が苦笑する。
「いや、さすが名家は、金もあれば趣味もいいな、と思って」
「そうか?」
意に介した様子がない。
きっとこの環境は彼にとってあまりにも普通で、今目の前にある調度の価値など、
知りもしなければ関心もないのだろう。
完全無欠の貴公子ぶりである。
「さあ、こっちにきて、座ってくれよ」
横並びに設けられた席の片方に袁紹が座る。
几(ひじかけ)だけが置かれていた。
曹操が食事を所望したので、後から案(食事を乗せた銘々膳)が運ばれるのだろう。
席につきながら、曹操は自分の為に用意された几を見つめる。
「また見てるのか。そんなに気になるか?」
そういう袁紹は、曹操があれこれと興味を示すのが気になるらしい。
「これとかさ、目立たないけど、結構値打ちもんだろう?」
黒い漆で塗られたそれには、朱で雲紋が少し散らされている。
みごとな筆致は、熟練した工人のものなのだろう。地味だが、隙のない作りだ。
「そうかな……。わたしはそういったことはあんまり分からないんだ」
袁紹は少し戸惑う風を見せる。
本当に関心がないのだろう。
「お食事の用意が出来ました」
侍女が食事を乗せた案を運んできた。
これもきっと、見えないところでひどく凝った料理なのだろう。美味に違いない。
* *
「よく食べるなぁ……」
袁紹が呆れた声を出す。
「腹減っててさ」
おじと食事をしたときも、いちおうは腹に入れていたはずなのだが、
宿が見つからなくて緊張したせいか、ひどく空腹になっていた。
しかも目の前の料理が想像していた以上に旨い。
椀の数は多くはなく、喪中なので肉などは使われていないが、それでも曹操の
食欲を刺激するに余りある旨さだった。
ふと見ると、相伴している袁紹はほとんど食べていない。
本当は先に済ませていたのに、曹操に付き合ってくれているのだろう。
酒でもあれば間ももつものだが、喪中なのでそれもなく、手持ち無沙汰げに椀の中
をつついている。
「……もったいねぇなあ、それ」
もてあそばれるばかりで、口に運ばれる事のない料理に視線をやる。
青い野菜の浮いた湯(スープ)だ。いくらか浮かんでいる褐色の薄片は鮑魚
(あわび)の干したものだろう。珍しくて高価な食材である。
自分の案の上にもあったが、曹操はことのほかそれが気に入って、すっかり平らげ
てしまっていた。
身を乗り出して袁紹の案から奪ってみる。
このお上品な貴公子の前では、なんだかことさらに野粗に振舞いたくなるのだ。
「おいおい……」
袁紹が目を丸くしている。
この男の前でこんなことをやった客など、おそらくこれまでになかっただろう。
「だって食わねぇみたいだから」
匙を使わずに椀に直接口をつけてすする。
下品な行為だ。袁紹は顔をしかめた。
「おじ上が嘆くわけだ」
そう言えば、この男はおじと何を話したのだろう。
なんだかあまり、しつこく聞いてはいけない感じだったが。
「あいつのことなんかどうでもいいさ。あんたも嫌いなんだろ」
「おじさんのことというよりは、おまえ個人の品位の問題だろう」
「あ、おまえって言った」
「おまえだってあんた呼ばわりのくせに」
貴公子が少し汚い言葉を使う。
似合っていなくてなんだかおかしい。
「こちとら育ちざかりなんだ。礼儀になんてかまってられるか、めんどくせぇ!」
湯の中を箸でかきまわして、鮑魚の薄片をつまみあげた。
だしが出てしまっていて、鮑魚自体にはもうあまり味が残っていない。
袁紹も曹操を見つめ、笑いながら言う。
「その割にはあんまり育ってないみたいだけどなぁ」
「言ったな!」
曹操は自分の体の小ささを気にしている。
箸を手放して殴りかかりにいくのも面倒なので、つまんだ鮑魚を袁紹の顔に向かって飛ばした。
鮑魚はぺしゃり、と袁紹の額に当たった。
避けるだろうと思って飛ばしたので、曹操は慌てた。
これは、ひどい侮辱だと受け取られても仕方がない。
「…………」
袁紹は額に張り付いた鮑魚を手で取って、それから案の上の巾を取り、
額を拭いた。
その動作はひどく緩慢に見えた。
怒っているのだろうか。
「……急に投げられても」
「……は?」
「投げるぞとか、先に
何か言っておいてくれないと、受け取れないじゃないか」
曹操は一瞬呆けた。
それから、大爆笑した。
袁紹がきょとんとした顔でこちらを見つめている。
「あ、あんた……おかしいや!あは、あははは!」
「……何が?」
本当に不思議そうな顔で問う。
それがまたおかしくて、曹操は腹を抱えて笑った。
息が苦しい。わき腹も痛くなってきた。
その姿をじっと見つめる袁紹の顔はだんだん当惑した感じになってくる。
「笑い上戸なんだな」
「や、やめてくれ……」
言うことがいちいちつぼにはまって、曹操の喉がひゅうひゅうと鳴る。
笑いずぎて死にそうだ。
「なんでもおかしいと感じる時期ってのはあるもんだ」
うんうんと頷いて、袁紹はなんだか一人で納得しているようである。
この男を相手に、警戒心だとか敵
愾心だとかを維持しつづけるのは難しい。
曹操は実に久しぶりに、完全に無防備になって笑った。
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