曹操の身体は神経質に痩せていて、横から見ると、前から見るよりもなお細く感じる。
髪はあいかわらずさばきっぱなしだし、
上質な衣装を着ているのでなかったら、とても金持ちの子供には見えないな、と袁紹は思った。
「なに見てんだよ」
また睨まれて、苦笑いする。
「そんな妙な格好してちゃ、
そりゃ見られもするさ。城市でも随分注目を集めたんじゃないのか?」
そうかな、と曹操は、肩の上に散った髪や、着崩した自分の衣装を見る。
大人びた喋り方と対照的に、そのしぐさはひどく子供らしい。
すこしうちとけたいと思って、思いついた話題を振ってみた。
「実はわたしもあの人は、ちょっと嫌いだなと思った」
曹操が驚いた顔で振り向く。
「きみが喧嘩してしまうのも、分かるような気がするんだ」
心遣いのつもりの言葉だった。
だが曹操は、奇妙なものを見る目で袁紹を見つめている。
「……あいつ、あんたに何か言った?」
「いや、別に」
事実ではなかったが、曹操に聞かせたい話でもないので黙っておいた。
「なんであのおっさんが嫌いになったんだ?」
「おじさんのことか? ……そうだな、話してて、何となく嫌な感じがした」
「ふうん……」
納得しない顔だ。
大きな眼は細めてしまうと、とたんに子供らしさを失う。
隠していることがあるのを見透かされたような気がして、すこしどきりとした。
軽い沈黙が流れる。
袁紹はだれかと二人でいて、お互いに黙ってしまうという状況がことのほか苦手だ。
やくたいもないことをあれこれ考えてしまって、不安になったりするからだ。
話題を変えて、なおも話を続けようと努めた。
「さっき、本当は君に会いに行ったんだ。詫びっていうのは口実。
だから会えないのかと思ってがっかりした」
曹操が眼を見開く。
睨んでいなければ、顔の造作はむしろ愛らしい類だ。
「……おれに? なんで?」
「何先生がきみの話をしてくれてね。大物になりそうだと言うから、ちゃんと
話をしてみたかった。昼間はあまり話せなかったから」
「何先生……?」
記憶を探り出すように宙を見つめる。
「ああ、あの、何伯求とかいう人?」
「ああ。えらくきみを買っていた」
「ふーん……」
曹操の方は、何ギョウをどう思ったのだろうか。興味があったので問うてみた。
「何先生はどうだった?」
「……なにが?」
「話してみた感じ、というか」
曹操は腕組みをして、口をへの字に曲げて宙を睨む。
「……なんか、変わったおっさんみたいだったけど」
しばらく次の言葉を待ったが、なかなか続きを言わない。
「……けど、何だ?」
「……え?」
「けど、の続き」
「……あるわけないだろ?」
「え?」
曹操にとって、さっきの話はそこで終わっていたらしい。
どうもうまく会話がかみ合わない。
また沈黙してしまった。
なにかうまい話題はないものかと、焦り気味に頭の中をかきまわしていると、
曹操の方から口を開いた。
「正直、解せねぇんだよな」
唐突だったので、反応が一瞬遅れた。
「……何が?」
曹操は目を細めてこちらを見ている。その表情からは感情が読み取れない。
「あんたの態度がさ。何を企んでんのか理解出来ない」
企んでいる? 何をどうしたら、袁紹が何かを企んでいることになるのだろうか。
「あんたの従弟の態度の方が、普通な気がするんだ」
「え?」
「あんたほどの家柄があったら、普通はおれたちなんか相手にしないだろ。
妙に扱いがいいのが気持ち悪い」
ああ、と袁紹はため息をつく。
曹操でも家柄で人を判断するのか。彼にはそうであって欲しくなかった。
落胆を表に出さないように、辛抱強く諭すように言う。
「家の葬儀に客が来たら、普通は丁重に応対するだろう。
失礼があったら謝りに行く。当然のことじゃないか」
「客にもよるだろ」
曹操はこちらと眼を合わせようとはしない。
「曹家じゃ気に入らない客が来たら、侮蔑することにしてるのか?」
「そんなことはないけど……」
「相手が誰であろうと、失礼があれば謝る。相手を見て態度を変えるなんて、小人の
やることだ」
「つまり評判を気にしてるのか」
「評判……?」
袁紹は絶句した。
まるで無理やり袁紹を悪く思おうとしているようだ。
どうしてそこまで疑われなければならないのだろうか?
きっと憮然とした表情をしていたのだろう。曹操はちらりと袁紹に視線をやった。
「だけど名家としちゃ、
宦官の家をまともに相手にした方が評判落ちるんじゃないか?」
皮肉に笑っている。その表情が、先ほど見た曹晏の顔とかぶって見える。
卑屈な、自嘲の色。
こんな表情を子供がしてはいけない。特に曹操のような子供は。
「…いちいち拗ねるのやめろよ」
声に怒気をこめる。もう気を遣うのはやめた。
「自分が宦官の家の者だから、世間の連中はみん
な自分を軽蔑してる。そうとでも思ってるのか?」
「そうじゃないのか?」
曹操は苦笑交じりに答える。当たり前のことを指摘されて、可笑しがっているかのように。
「違うさ。どこの家にだって事情がある。宦官を出したからって卑しい家だとす
るのは、短絡すぎる考え方だ」
「世間なんざ短絡なもんだぜ? あんたがおれに気を遣う必要なんて、
ないじゃないか」
「曹家に気を遣って言って
るんじゃない。袁家だって宦官を出してる。曹家が卑しいなら、袁家も卑しいってことに
なるじゃないか!」
曹操が驚いた顔でこちらを見ている。曹晏に聞かされてはいなかったらしい。
「……本当か?」
「本当さ。誰にでも聞いてみろ。わたしから縁は遠いが、今後宮で働いてるよ」
袁紹は妙にすっきりとした気分になっていた。
一度口に出してしまえば、存外なんでもなかった。
別に隠しておくべきことではないのだ。本当のことなのだから。
* *
袁赦というそのおじは、中常侍として帝の側近くに仕えている。
ほとんど話をしたこともなく、自分とどんな続柄にあるのかもよくは知らない。
子供の頃に、一族の集う席で何度か姿を見かけた記憶がある程度だ。
最近ではそういった場所でも袁赦を見ることはなくなった。もちろん今日も来てはいない。
冠礼を迎え、袁家の顔となる役割を担って以来、袁紹のいる周辺で袁赦の話題を出すことすら、
一種の禁忌になっているようだった。
影のような男だと思う。
一族の者は皆、その存在から目を背けようとしている。
けれども影は必ず人に寄り添っているものだ。暗闇にいる時ならば見えなくとも、
浴びる光が輝かしければ輝かしいほど、影もまたその色を濃くする。
意識しないでいられる者などいないだろう。
初めて自分の一族に宦官がいることを聞かされた時は、ひどく衝撃を受けた。
どうして宦官を出すようなまねをしたのかと、大人たちをなじった。
袁紹の詰問に、おじの袁隗はこう答えた。
それが良いか悪いかは別にして、今の朝廷を動かしているのは宦官である。
だから一族を守りつつ、この国を維持して
ゆくためには、彼らと上手くやっていく必要がある。
たとえ腐臭のする濁世であっても、国家に政は必要である。家族は養わなければならない。
多少汚いと思う手段も、取らなければならないことがあるのだと。
袁隗は袁紹の父袁成の末弟で、今は大鴻臚の地位にある。
宦官が横行する朝廷の中にあって、宦官に組することなく、かつ失脚させられることもなく、
無事に地位を保ち続けているのは、袁赦の援助に負うところが大きい。
袁紹は袁隗の言葉には同意しない。
一族を、血統を、名誉を、国家の安定を守るというのは、体のいい言い訳にすぎない。
それはつまり、袁家の者は財産や地位や名誉を失わないためになら、腐敗した世の中をも
容認するということだろう。
たとえ自分と家族の命を危険にさらしても、守らなければならない大義というものが、
この世にはある。
そう、思いたかった。
* *
「そうか…」
曹操は首をうなだれた。
そんな風にすると心もとなく感じるほどに、まだ細い子供の首をしている。
「今の宦官は程度が低い。きみの祖父上の頃よりずっと。職権を乱用し
、暴利をむさぼために手段を選ばず、政治のことなどかえりみもしない」
宦官に対する反対運動は挫折した。何ギョウなどはそのために、追われる身となった。
汚職の程度は酷くなる一方で、もはや歯止めは効きそうにない。
狂気のような拝金主義が横行して、地方行政は破綻し、民はどんどん生活に困窮してゆく。
その先に生まれるであろう波乱を、誰もがもう、近い将来のこととして思い描いている。
「遅かれ早かれ
連中は打倒されるだろう。そうなった時、おじは宦官との親密さを理由に、職を解かれる
もしれない。
そこでわたしのような、宦官に遠い者が官を得る。そうやって家を維持していくんだ」
きっと自ら動かずとも、そんな流れになってゆくのだろう。
一族が袁紹に期待しているのは、それを阻害するようなことをしないこと。
それ以上でもなく、以下でもない。
だから余計な理想など持ってはならない。
評判を落とすようなことをしてはならない。
宦官の身内に近づいてはならない。
「うちのような家にでも色々な事情がある。きみの家でも、傍からは分からない事情
があって、一族から宦官を出したんだろうと思う。違うか?」
曹操は黙っている。
肯定の意味と受け取って、そのまま言葉を続けた。
「きみの父上は宦官の力で権力を握った。わたしのおじは宦官の力を利用して、
今ある地位を維持しようとしている。順番が逆なだけだ。わたしに曹家を軽蔑する資格はない」
曹操はしばらく黙ってうつむいていたが、ややあって顔を上げ、袁紹の方を見た。
「分かった」
まっすぐこちらへ向かってくる、その眼には濁りがない。
「名門にもいろいろあんだな。つっかかって悪かったよ」
急にしおらしいことを言うので、袁紹はすこし慌てた。
「分かってもらえたならいいんだ。急に素直になられちゃ、
こっちもどうしていいか分からなくなる」
「なんだよ、人がせっかく謝ってんのに」
曹操はむくれて、照れ隠しのようにそっぽを向いた。
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