曹操は途方に暮れていた。
飛び出したはいいが、行くところがない。
金ならば余るほど持っているから、適当に宿を見繕って一人で泊まろうと思っていたのに、
もう日が落ちようという時分になっても、まだ泊めてくれる宿が見つからないのだ。
曹操は人並みよりも体が小さい。実年齢もまだ子供だが、見かけはさらに幼い。
上等の服を着ているくせに髪はさばいているし、
通じないほどではないが、よそ者と分かる発音で話す。
おかげでどこへ行っても怪しまれ、とても房室(へや)など貸してもらえなかった。
あまり平和とは言えない世の中だ。どこかで攫われた子が賊の手から逃げ出してきた、などと想像されても無理はない。
皆やっかいごとに首を突っ込む気などないのだ。
正直なところ、こういう事態は想像もしていなかった。
郷里のショウならば、城下の者はみな彼の顔を知っていて、誰もが大人なみに扱って
くれたからだ。
自分が子供だということに改めて気付かされた気分だった。
子供に見えるのだから、子供扱いされることはどうしようもない。
そのどうしようもないことが、無性にくやしい。
子供だということは無力だということだ。
自分の無力さを痛感させられることほど、くやしいことはないのだ。
* *
さまよっているうちに、元の宿の近くまで戻ってきてしまった。
だが曹晏のところに戻る気には、どうしてもならない。
これは腹をくくって野宿するしかなさそうだ。
そう思いながら歩いていると、目の前で四頭立ての馬車がいきなり停車し、窓から喪服の男が声をかけてきた。
「きみ、確か曹家の」
曹操はその顔を憶えていた。袁家の頭領、袁紹だ。
「……こんなとこで何してんだ? あんた」
袁紹は喪主で、葬儀中は外出などしてはいけない立場なはずだ。
名門の子弟は孝であることを重視する。個人の評判に大きく影響するからだ。
良い評判を得ておくのは大切なことだ。それが猟官の手段にもなるのだから。
「それはこっちの台詞だ」
袁紹は笑った。
「従弟がきみのおじ上に失礼なことを言って、追い出してしまったような形に
なったものだから、先ほどお詫びに伺ったんだ。きみにも
会いたいと思っていたから、会えてよかった」
名門中の名門の頭領が、宦官の余贅と悪名の高い曹家の者に詫びを入れにくる?
言葉の意図を測りかねて、曹操はしげしげとその顔を見つめた。
袁紹の笑みが苦笑交じりになる。
「そう睨まないでくれよ……。君は、おじさんと喧嘩をしたんだって?」
「あんたに関係ないだろ」
思わず警戒する。
余計なお節介をされて、あの宿に戻されてはたまらない。
「おじ上は、どこに行ったか分からないし、戻ってくるかどうかも分からない、って
仰ってたよ。家出して飛び出した、ってことになるのかな?……あ、宿だから宿出か」
「……は?」
「よかったら家に来ないか?」
袁紹はにっこりと笑う。
「もう日も暮れるし、いつまでも外をうろついていちゃ危ない」
馬車の扉が開けられた。
「隣に乗らないかい?」
* *
(こいつ、何考えてるんだ?)
そう思いながらも、曹操は袁紹の隣に乗り込んだ。
少々疲れたし、宿を貸してくれるか、何か食べさせてくれるかもしれない。
もしも何かの罠だとしても、こんな細くて腕も立ちそうにない男ならば、
殴り倒して逃げられる自信はあった。
「公路は悪い男ではないんだが、いささか偏見が強くてね。きみにも失礼なことをした」
公路というのは、さっき言っていた従弟というヤツのことなのだろう。
そう言えば、ちょっと太り気味な若い男に、宦官の家のガキが何をしにきた、とか喧嘩を売られた
憶えがある。
「あんまりいいやつにも見えなかったけどな」
曹操はその男の様子を思い浮かべる。
尊大な表情が、中年女のように脂肪のついた顔によく似合っていて、およそ
若者らしくない男だった。
「あれで結構素直なところもあるんだよ。面子を尊重して
やりさえすればね。でもまあきみとは合うまいね」
そう言いながら、袁紹はくつくつと笑った。
(なんだこいつは?)
普段は相手の内心や次の言葉を読むのが得意な曹操だが、
この男の頭の中は読めなかった。
「宿を出たのはいいけど、行くあてがないんじゃないか?
子供ひとり、そう簡単に泊めてくれる宿はないだろう」
「悪かったな」
実際に子供なのだから仕方がないが、袁紹のようなごく若い者に
子供扱いされることは、なんとなく癪に障る。
「どうして? きみが悪いわけじゃないよ」
袁紹が不思議そうな顔をして顔を覗き込んでくる。
あまりに邪気のない表情をしているので、思わず顔をそむたくなった。
(……悪くないって? そりゃ当たり前だ)
曹操が「自分が悪いから宿が見つからない」と思っていると思ったのだろうか?
そもそも何で宿が見つからないからって自分を責めなきゃならないんだ。わけが
わからない。
「……うちに来るの、嫌かい?」
引き続き、真摯な面持ちで覗き込んでくる。秀麗な顔をしているだけに妙に
迫力があった。
曹操が黙っていると、
「公路とは顔を合わせずにすむように取り計らうから」
何を誤解したのか、違うところに気を回してくる。
なんだか哀願されているような格好になってきた。
「ええと……」
自分の調子を取り戻さなければならない。曹操はわざと横柄な口調で言った。
「……そっちこそ、いいのかよ」
「何が?」
「おれみたいなのを自分から屋敷に入れちまって、いいのかって言ってんだよ」
「おれみたいなの?」
袁紹は少し首をかしげる。
「だから……あんたの従弟は言ってただろうが。
宦官の家の子供が入ってきたら汚れるって!」
「ああ……」
袁紹はまだ少し、得心がいかないような表情で言った。
「公路が知れば気にするかもしれないけど、いちおうあの家の当主はわたしだし、
問題ないよ」
何かが違う、と思いながら、曹操はすぐに言葉を返せずにいた。
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