袁紹は曹晏に詫びを言いに行くことにした。

曹操の姿が見えなくなってしばらく経ってから、保護者であるはずの曹晏が、ひとりで姿を現した。
その時にやはり袁術が、曹晏と曹家のことを侮辱したのである。
門をくぐられただけで迷惑なのだと、 他の来客にも聞こえるほどの大声で罵倒した。
別に曹家と袁家の間には何の怨恨もない。袁術の曹家に対する仕打ちは過剰にすぎた。
宦官の養子という、その「養子」の部分を ことさら強調していたのは、おそらく袁紹に聞かせるためだったのだろう。
ただ、曹操の品行の悪さも大いに非難していたから、七光りと言われたことにも、 まだ腹を立てていたのかもしれない。
青くなった曹晏は、逃げるように姿を消した。

他の賓客たちが曹晏に向ける視線も嘲笑の色を帯びていたし、 あの気の小さそうな男に、かなり嫌な思いをさせてしまったのではないかと思う。
詫びに行ってもおかしくはないだろう。

もちろん口実だ。
曹晏の側には曹操がいる。


今夜はおそらくこの汝陽の城市の、どこかに宿を取っているだろう。
彼らの住んでいるショウの城市(まち)は、ここ汝南からさほど遠くはないが、 さりとて一日に何回も往復できるほど近くはない。
袁紹はこの城市の人々の尊崇を受けているので、聞けば彼らの 泊まっている宿のことぐらいはすぐに調べて教えてくれるはずだ。
本当は喪主が葬儀の最中に家を出るなど、孝道に反することなのだが、そんなことを気に するのももう面倒だった。

かまうものか。日没までに行って、戻ってくることにしよう。




  *  *




白い喪服を着た袁紹の姿を見て曹晏は驚き、そして恐縮した。

本来一歩も自宅を出るべきではない喪主が、彼に非礼を詫びるために 自身出向いてきたのだ。
宦官の子弟でなくても慌てるだろう。

「今日はあまり時間がないのでゆっくりはお話できませんが、お詫びだけはしておこうと思いまして。 さぞかしご不快だったでしょう。申し訳ないことをしました」

深深と頭を下げる。

曹晏はあまり音を立てないように、かつ出来るだけ早く近づけるように、骨折りながら近づいてきた。
このような時、音を立てて走ってはいけないし、長く相手に頭を下げさせたままでいるのも いけない。礼というのは不便なものだ。

「そのようになさってはこちらも身の置き所に困ります。どうか顔をお上げ下さい」

遠慮がちに袁紹の腕に手をかけ、助け起こそうというそぶりを見せる。
頭を下げる相手を重んじるという意思表示のための、これもまた一種の礼だ。
曹晏の動きはぎこちなかった。袁紹がよく付き合っている人々は、もっと優雅に礼をこなす。

「ありがとうございます」

袁紹はゆるやかに顔を上げ、微笑んで感謝の言葉を述べた。
曹晏がため息をつく。

「どうかなさいましたか」

問うと、苦笑しながら頭を振った。

「いやいや……。比べてしまいましてな、われらの次期頭領どのと。御身は非の打ち所のない 貴公子であられる。父君がうらやましい」

次期頭領というのは曹操のことだろう。
あのようすでは、さぞかし親族間の悩みの種になっているに違いない。

「吉利どの、でしたか」

忘れたはずもないその幼名を、何故だか今思い起こしたかのように口にした。

「おや、どこのその名を? あれが申しましたか?」

曹晏が不思議そうな顔をして袁紹を見る。

「旧知の王子文が親しくしているということで、そう紹介してくれたのですが、違いましたか?」

「いや、そうじゃないんですがね。なるほど王子文といえば、あれの学友ですな。それでその名をご存知でしたか」


親しい者の中で、曹操を「吉利」と呼ぶものは多くない。そう曹晏は言った。

「わしらは阿瞞と呼んどるのです。お会いになったのなら分かっておられようが、 何しろあの性格ですからな。あれ自身も、そう呼ばれることを嫌ってはおらぬようですし」

瞞という字には「だます」などの意味がある。こまっしゃくれ、という程度の呼び名だ。

「むしろ吉利と呼んだ方がいやがるのです。なんででしょうな。よほど良い名なのに」

吉利とは文字通り吉祥の言葉だ。そう呼びたがる人々の間には、彼に対し期待する思いが 強いのだろう。

「あのくらいの年頃でしたら、周囲に反抗してみたい気持ちはあるでしょう。 そういったことではないでしょうか」

祝福を拒み、むしろ悪く言われる方を好む。
そこに曹操の屈折が見えると思ったが、今は穏当な答えを返しておく。

「まあ、阿瞞の方が似合っておりますしね。悪戯でひねくれ者で、大人の言う事を聴かん、 どうにも困った子です」

曹晏は苦々しげに言う。

「確かに驚かされましたが……。破格の人材であるから、凡夫と同じ尺度で測っては いけないと、何伯求どのが申されておりました」

伯求は何ギョウの字である。彼もまた、天下に名の知れた人物だ。
曹晏の態度が改まった。

「ほう、何伯求どのが……。左様か……」

そう呟いた表情には、どこか複雑なものがある。
この人物は曹操をあまり好いてはいないのだな、と袁紹は思った。

「吉利どのにも、公路が失礼なことを言いました。お詫びしたいのですが、どちらにいらっ しゃいますか?」

出来るだけ自然に聞こえるように、などと妙に気を使いながら、慇懃に尋ねる。

「わざわざ詫びられることもありますまい。あれだって失礼な事をしでかしたのですから。 おお、わたしからも改めてお詫びしなければ」

今度は曹晏が頭を下げようとして、袁紹が押し留める。

「どうぞそのまま。お会いすることはお許しいただけないのですか?」

あまり時間がない。袁紹は少々急いていた。

「許すもなにも……」

そう言って曹晏は苦笑する。

「実はお会わせしようにも、今ここには居らんのです」

その答えに、袁紹は少なからず驚いた。

「……いらっしゃらぬ、とは?」

曹晏は照れたように頭に手をやる。

「みっともない話なのですが。食事の際に今日の非礼を叱りましたら、わたしに椀など投げつけて 、宿を飛び出していきおったのです。どこへ行ったものやら、見当もつきません」

見れば、曹晏の髪が少しぬれている。
袁紹が来た時、部屋の中で何人か人が動いている気配がしていたが、おそらくその後始末を していたのだろう。
それで余計に慌てていたに違いない。

「そうですか……。それは、残念なことです」

そう言った声が我ながらひどく落胆しているようで、袁紹はすこしうろたえた。

「いやいや、本心を言えば、また何か粗相をしでかすかと気が気でないので、 会って下さらない方が安心です」

曹晏はまた苦笑する。

「家でもこんなことばかりやっておっておるのです。本当に、手に負えん子供なんですよ」

そろそろ日も暮れる刻限である。寒い季節ではないが、こんな時間に どこをさまよっているのだろうか。

「この汝陽の城市は、以前まで比較的治安が良かったのですが、最近はとみに悪くなってき ています。心配なことですね」

子供の一人歩きが安全な城市ではない。袁紹は憂えた。

「なあに、あれは簡単にどうにかなるような子ではありません。 案外郷里へ戻ったら、わたしよりも先に帰りついているかもしれませんよ。 ここに来た時のようにね」

そう曹晏はまた、大きな声で笑った。
曹操を心配している様子はかけらも見えない。

やはりこの男は、曹操を好いてはいないのだ。

同じ城市の中とは言え、日没を過ぎればあちこちの門が閉まり、家に帰れなくなる怖れも あるので、さっさと切り上げて帰ることにした。
曹操がいないとなれば、ここにはもう用はないのだ。

「お会いできないのは残念ですが、今日はこのままおいとまさせて頂くことにします。 袁紹が謝っていたと、吉利どのによろしくお伝え下さい」

「わざわざのお越し、痛み入ります。本当に袁公子は礼儀正しい方でおられる」

袁紹と曹晏とは、互いに礼を返して別れた。



「同じ宦官の身内だというのに、本当に大違いだ!」

廊下に出るなり聞こえてきた大声に、袁紹はぎょっとして振り向いた。
曹晏と眼が合う。
口元を歪めて笑っていた。聞こえるように言った、ということだろう。

(知っていたのか……)

別に隠しているわけではない。
少し調べれば簡単に分かることであって、誰が知っていても不思議ではなかったが。

ただ、自分は袁術と違って、そんなことを気にしていないと思っていた。
だから衝撃を受けている自分に、自分で驚いた。
袁術のように、やはり心のどこかで引け目を感じているというのだろうか。

曹晏の笑みが、ひどく醜く見えた。

「醜い」と思うということはきっと、自分はこの人物を嫌っているのだろう。
それは今投げつけられた言葉のためか、それとも曹晏が見せる曹操への悪感情 のせいか。

不快な重さで心中に渦を巻く、複雑なその感情を表に出してしまわないように、 袁紹は足早にその場から立ち去った。




  *  *




袁紹が去った後も、まるでまだその空間に彼がいるかのように、曹晏は虚空を見つめていた。

つぶやく。

お前だって、おれたちと同じようなものではないか、と。


不公平だ。まったくもって、不公平だ。



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