曹操は曹晏と喧嘩をした。

悪いのは自分だ。それは分かっていたが、このおじが嫌いだったから、 まともに説教を聴いてやる気になどなれかった。

二人は連れ立って(正確には晏が年少の操を連れて)ここ汝陽の、名門袁家の葬儀に 弔問に来ていた。
曹操は父曹嵩の代理であったが、まだ未成年なので、後見人として曹晏が同行しているのだ。
曹家と袁家の間に親しい付き合いがあるわけではない。
名声を慕って勝手に押しかけているわけで、袁家にしたらむしろいい迷惑なのかもしれない。 それでも顔さえ出しておけば、相手を尊重し、付き合いを求めていると解釈されるだろう。

曹嵩は政府高官だし、曹操もやがては官界に身を置くようになる。名門との付き合いは重要だ。
もし袁家に相手にされなかったとしても、屋敷には相当な数の弔問客が訪れているはずである。 宦官の家系と蔑まれる曹家だが、その権力と財力に魅力を感じ、近づきになりたいと思う者は必ずいる。 この弔問を機会に、いくらかでも縁を作っておくにしくはない。
曹操はあと数年で冠礼(成人)を迎える。そろそろ自分なりの人脈を作っておくべき年頃なのである。

……大体そんなようなことを思って、曹嵩は自分を使いに出したのだろう。
品行に問題のある息子だが、目付役を付けておけば、めったな問題も 起こすまい。 ひとこと悔みの言葉だけでも言ってこれれば上等、後は曹晏がなんとかしてくれる。 そんな風にも思っていそうだ。

それが気に入らなかったので、往路の途中でおじを置き去りにして、ひとりで 袁家に行った。
そして失礼な態度を見せた上で、ろくな挨拶もせずに姿をくらました後、 汝陽の城市を遊び歩いた。

後からきた曹晏が大いに面目を潰したことは、想像に難くない。


曹操はとにかく曹晏が嫌いだった。 一緒にいればどうしても喧嘩になってしまう。
曹晏は曹晏で、曹操を見ると説教をしなければ気が済まないらしい。

おじと言っても曹嵩の兄弟ではなくその義父、曹騰の兄弟の子供である。 遠縁でも自分の父と同じ世代の親族は、おじやおばとして扱うのが普通だ。
曹家の多くの大人は、小賢しく扱いにくい曹操に深く関わろうとしない。
だが曹晏だけは説教をする。それをどう勘違いしてか、父の曹嵩は彼を、曹操を庇護する役回りに充てることが 多かった。

曹晏は別に、曹操のためを思って説教をするのではない。
ただ単に曹操が気に食わないのだ。
少なくとも曹操には、そうとしか思えなかった。

手を上げれば自分が怒られるので、ねちねちと言葉で責める。
本来なら言葉ぐらいで簡単に傷つく曹操ではないが、曹晏の説教は特別だった。
何度も何度も同じ話を聞かされる、終わりの見えない苦痛。
耐え切れなくなると曹操は荒れて、色々と問題を引き起こす。
そのために曹晏は、管理不行き届きを咎められる。 それがさらに感情的な反発を生む。
どうしようもない悪循環だ。


曹晏が曹操を嫌いなことには、はっきりとした理由がある。

曹家は曹騰が出世を遂げたことによって財産を成した一族だから、 曹騰の一家以外の者は、当初それほど裕福ではなかった。
曹騰は昔、夏侯家に恩を受けたことがあり、それを返すために、夏侯嵩を自らの養子として 財産を相続させた。
つまり曹嵩は、夏侯家から曹家に養子に入った者なのだ。

曹騰の財産の相続は、曹一族の誰もが渇望すること。それを夏侯家の者に持っていかれた という不満が、一族の中には燻っていた。
それで曹嵩は、曹家の二つの分家から、ひとりずつ養子を迎えることにした。
曹嵩には当時男子がなかったから、どちらか優秀な方を 世継ぎとすることによって、少々こじれた両家の関係を修復しようとしたのである。
その片方が、曹晏の二番目の息子、曹敬だった。

ところが程なくして曹操が生まれた。
曹嵩は曹操を溺愛し、結局後継は曹操になるだろうと一族の誰もが思い、また 曹嵩自身もそれを望んでいたように見えた。
そして曹操が五歳の時に、もう一人の養子である曹貞が、曹敬を巻き添えにした形で 自ら命を絶つ、という事件が起こった。

ふたりの間に何が起こったのかは分からない。
彼らの間にあった何かの問題が、そんな結果を生んでしまったのだろうと、 相続にかかわることが原因ではないだろうと、最終的にはそう結論づけられたのだが、曹家の間には、 今もその事件を曹嵩や曹操の陰謀によるものだと疑っている者がいる。
曹晏もそのひとりだ。

曹操さえ生まれなければ、そして自分の息子が死ななければ、曹嵩の持つ巨万の富は、 全て息子のものになるはずだったのに。
曹晏は曹操を責める。この世の不公平を呪う。
宦官の親族だと差別される不公平。同じように差別を受けているのに、 曹操の家に比べて貧しいという不公平。 自分の息子を先に養子に出したのに、 早くに死んでしまったという不公平。
どうしてこんなに不公平なのだ。誰も彼も。何もかも。


ふたりの兄が死んだことについて、曹操にはあまりはっきりとした記憶は無い。
それでも激しい衝撃を受けた記憶だけは、鮮明にあった。
記憶していると思っている曖昧な風景は、或いは真実を聞かされてから、自分で作りあげてしまったもの かもしれない。
だから本当のことではないかもしれないが、 曹操はずっと「自分のせいで兄達が死んだ」と思っていた。
そう思って、自分を責めていた。

死体を見た。
兄達の死体が曹騰の墓前で見つかったとき、自分はその傍に座り込んでいたというから、この記憶は確かなものだろう。
もしかしたら、息絶える瞬間も見つめていたのかもしれない。

赤い色。
石畳の上の血溜り。
重なって倒れた二人の体。
金属に反射する白い光。
背中から突き出した、刀。

曹晏の説教を聞く度に、それを思い出してしまう。 繰り返されれば繰り返されただけ、その記憶はさらに生々しくなって、自分に迫ってくる。
ただの悪意ある言葉であれば言い負かすことが出来るが、曹晏の言葉 が呼び起こす記憶の風景にだけは、曹操は抵抗できない。
恐怖や罪悪感や悲しみや、いろいろな感情が 喚起されて、気が狂ったようになるのだ。

そんな時曹操は黙ってしまうから、傍らから見れば、言い返せずに 大人しく諭されているように見えるだろう。
限界を超えて狂おしく荒れれば、突然癇癪を起こしたのだと思うのだろう。

曹操の苦しみを理解する者はない。


曹晏と一緒に夕食をとりながら、曹操は長くなるであろう夜を思う。
今夜は寝室も同じだ。いつにもまして長い説教を聞かされることになる。 責め苦は一晩続く、ということだ。

想像しただけで耐えられない。

黙って食事をとっている曹晏に、目の上の全ての椀を投げつけて、 曹操は宿を飛び出した。



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