喪失


わずかに曲げられた背中の線。
筆を置く仕草。
肉の薄い、痩せた体格。こちらを振り返るときの、ゆるりとした速度。

「どうした?」

感情を見せない声で、曹丕は問う。

「……何でもございません」

無遠慮なまでにその姿を見つめていた自分に気付き、許チョは頭を下げた。
曹丕はすこし、顔をしかめる。

「……ではそのようにしげしげと見るな。落ち着かぬ」

「ご無礼をいたしました」

「責めているわけではない。ただ、珍しいことではあるがな。許将軍の気配が気になるなどとは……」

まるで居ないかのように殺気を立てない護衛だ、とかつて曹操が、許チョのことを評したことがある。
その曹操の死から、もうすぐひと月が経つ。

許チョの生活は、今のところ、以前とあまり変わってはいなかった。虎士(近衛兵)を率いて魏王の身辺を警護する日々である。
ただ魏王、その人だけが変わった。そして曹丕は曹操に似ていた。だから許チョは戸惑うのだ。

体格や顔立ちだけを取ればそれほどでもないのだが、仕草や、醸し出す雰囲気がひどく似ている。傍近く仕えるようになって、初めて気付いたことだ。
ともすれば、自分が警護している人物が変わってしまったことを、忘れそうになる。
無意識に期待していたものと違う顔がこちらを振り向くとき、許チョの思考は一瞬止まる。
そしてあらためて気付くのだ。かのひとは、もう、居ないのだと。

「殿下。夏侯将軍がいらっしゃいました」

侍従が執務室の入り口からそう告げた。
声とともに、夏侯惇が入室してくる。

「殿下。夏侯惇、参上いたしました」

拱手する夏侯惇に、曹丕が声をかける。

「夏侯将軍、青州の者たちはその後どうだ?」

「やはり決意は固いようです」

「そうか……」

「青州兵」と呼ばれていた古参の兵達が、除隊を願い出ていた。
公的に集められた兵士ではなく、義侠の精神をもって曹操個人に仕えていた、半ば自立した軍団であった。

「わたしには仕えん、と言われているような気がするが……」

口元が笑みの形を見せ、歪む。
誰よりも大きな存在だった父親を継ぐのである。その心中には、余人には汲み取りがたい複雑な思いがあるのだろう。
与えられた地位を無神経に享受するには、曹丕は聡明すぎた。

「老兵ばかりです。もはやわが軍になにほどの影響を与える存在でもありません」

そう取り成す夏侯惇の声は穏やかだ。
曹軍がまだ兵力の欠乏に苦しんでいた頃、彼らの助力は大きかった。
今は、その頃に十倍する兵力を誇れるようになっている。

「そうだな……」

曹丕はひとつ、ため息をついた。

「よかろう。除隊を許可する。しかしそうなると、兵の再編成が必要となるな」

「殿下には近いうちに、出兵なさるご意向はございますか?」

「いや。しばらくは動かぬ」

「ではこの際に、軍の若返りをはかりたいと思います。訓練のための時間を取ることもできましょう」

「うむ」

夏侯惇に頷いた曹丕は、許チョの方を見た。

「許将軍、虎士の人員も少し整理したい。 立場が変われば、数を増やす必要があるからな」

立場が変わるということは、王ではなくなるということだろう。近いうちに皇帝になると、曹丕は暗に言っている。
許チョにはそのことに対し、特に思うところはない。王の近衛が皇帝の近衛になる。ただそれだけのことだ。 曹丕の決断の是非は、許チョの関知する問題ではないのだ。

「それも含め、夏侯将軍と話し合ってもらいたいと思う。ここは許将軍自らが警備に当たる必要は特にないから、今日は夏侯将軍と話し合いをしてくれ」

「御意」

夏侯惇が許チョに笑いかけて、二人はそのまま黙って魏王の執務室を去った。



「どうやら卿も、すこしけむたがられているようだ」

苦笑しながら夏侯惇が言う。
夏侯惇は最古参の将軍であり、曹丕にとってはおじにもあたる。
特に野心があるわけでもない、いたって温厚な人物だが、しかし軍に影響力の強い目上の親族ともなれば、 曹丕の目にはけむたい存在と映るのだろう。

「わたしが主公と……」

言いかけて、おのれの言葉が適当でないことに気付く。
今、主公と呼ぼうとしたのは、曹操のことだ。現在許チョは曹丕に仕えているのだから、主公と呼ぶべき人は曹丕であって、 曹操ではない。

「……先王と、殿下を比べている、と思っておられるようです」

夏侯惇は、また笑った。

「余人はいない。言葉に気をつけなくともよいさ」

その笑顔はこのひと月の間に、ずっと老け込んだような気がする。
許チョはそんな夏侯惇の顔を見ると、あらためてあるじの死を思い出すのだ。
曹操も病に侵された時、急に老人となった。
なのに眼だけは出会った頃と変わらぬ光を宿していて、それが、見ていてとても辛かった。

「比べているつもりはないのですが、ただ……」

「ただ?」

「殿下は先王にとても似ておいでです。間違えそうになって、それで戸惑うのです」

「そうか……」

夏侯惇は隻眼を閉じた。

「わしもな……。わしも、いまだに、実感を持てずにいる」

深いため息をつく。
息と共に、何かが吐き出された。そんな気がした。

「今こうしている間にも、あの、詩を吟ずる声がな……。あちらから、聞こえて来そうな気がしてならんのだ」

うたう声。話す時よりも、僅かに高くて。

「奇妙なものだ。もうひと月も経つ。倒れてからは早かったが、病に苦しむ姿も、遺体も見たし、今こうやって素服(喪服)も身につけているというのに……」

葬儀があり埋葬の準備があり、さまざまな雑事に忙殺されて、日々は飛ぶように過ぎてゆく。
ただ気持ちだけが取り残されて、うまく現実を受け入れられずに。

「……時々、な」

「はい」

「本当に孟徳兄がもうこの世にいないのだと、実感する時が来るのだろうか、と思うのだ。」

「はい」

「もしも本当にそんな日が来たら、自分は立ち直れないのじゃないかと思うと、ぞっとする」

「夏侯将軍……」

失ってしまったということ。
今はまだ、それを頭で理解しているだけで。

「その日がこなければいい、ずっとそう思っている……」

いとこ同士であり、幼い頃からかのひとを知っている夏侯惇であれば、抱いている思いも、自分よりもずっと深いのであろうとは思う。
けれどもふたりとも、かのひとの存在を生きる理由にしていた。それはきっと、自分の思い違いではない。
今自分は、あなたに一番近いところにいる。そんな思いを込めて、許チョは頭を下げた。

「……こんなだから、王にけむたがられてしまうのだろうな」

夏侯惇は吹っ切るように笑う。

「われらは、青州の連中のように引退するわけにもいかん身だ。これからのことを考えねば」

「はい……」

それからひととき、軍についての事務的なことを話し合った。
お互いにこの先の軍や虎士のことについては、ある程度の考えがまとまっていたから、話がつくのにさほどの時間もかからなかった。

あの命が消えてしまった時、これよりも悲しく、つらいことはあり得ないだろうと思った。
曹丕を守ってくれと、病床での遺嘱を受けていなければ、墓中までも従ってゆこうと、それほどまでに思いつめた。
それでも何年もの月日が経てば、自分も忘れてしまうのだろうか。思い出として、なつかしく思い出す日が来るのだろうか。
今はまだ、そんな未来は想像できない。

明日、かのひとの遺体は埋葬されるという。







北方的許チョと夏侯惇です。
許チョの一人称にかなり迷ったり。

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