あとがきと解説。
よい育ちのヒトには天然が多い。
そーゆー偏見の元に袁紹を天然にしてしまいました。(笑)
天然は天然なりに、真剣に悩んでたりもするのですが、本人いかに切羽詰ってても、
その言動は何となく周囲を和ませたりするものです。
ほんで以下は、考証とか設定に関する解説となっております。
自分の作品に自分で解説つけるのもなんかヘンですが、三国志ファンの読者には
考証の類に関心がある方が多いと思うので、どこまでホントでどこまでウソか
についてまとめて説明します。
*追記!
新しいことが分かったので、「鮑魚」についての解説部分が、以前にアップした時と
変わっています。
気になる方はそこだけ読んでみて下さい。
まず曹操の設定。
曹晏、曹敬、曹貞は、実は架空人物です。
つまりあの生い立ちはまったくのフィクション。大昔に作った設定
なのですが、えらい暗いの作ったもんだと、今更ながら冷や汗出ますね。(笑)
曹騰の弟の曹鼎という人が曹晏の父、という設定になってます。
この人は、曹騰がまだ生きていたころ河間の相(地方長官。県知事みたいな)
をやっていたのだけど、
密かに罪を犯しまくっていて、汝南の党人(宦官の専横に反対運動を起こしたけど、
敗れて弾圧された人たち)である蔡衍さんに弾劾されたと史書に書いてある人です。
曹騰も救おうとしたけど結局救えず、曹鼎は獄に下されたそうです。
(死罪になったか刑を受けたか、そこははっきりしないのですが)
そういうこともあって、主家に対して逆恨みしてる感じのある一家、と設定しました。
でもって、曹晏の次にこの家系の当主となるのが曹洪。守銭奴家系でもあります。(笑)
全体に主家とあんまり上手く行ってない感じですが、曹操と曹洪はそうでもありません。
(曹丕とはダメでしたが)
蔡衍も袁家と同じ汝南の名士なので、汝南閥(みたいなのが出来ていたようです)に
あまりいい感情を抱いてなかった、のかもしれません。
ちなみに曹貞は曹仁の兄ということにしてます。この家は主家との関係は悪くないという設定です。
袁家の設定について。
こちらは架空人物を出していません。
袁紹から数えて四代前の袁安が最初の「三公」(官僚として最高の地位)になった人でして、
その子袁京、袁敞もまた三公になり、袁京の子袁湯も三公になり、そのまた子供が袁平、
袁成、袁逢、袁隗の四人で、うち袁逢、袁隗が三公になってるので、
「四世三公」な家柄なわけです。
袁平、袁成の二人は早死にしていますが、袁紹は袁逢の側室の子だったところを、
袁成の血筋を絶やさないようにと養子に出されて、必然的に一族全体の当主となった、
というのが定説のようです。(『後漢書』と『三国志』の、どちらにも書いてあります)
しかしだったらどうして袁湯の嫡子袁平の養子にしないのか、袁平の家系は
絶えてもいいのかとか(笑)思ってしまって、それで設定をちょっとひねってみました。
袁術にしても、袁紹の他にも袁基という兄がいることが分かっていて、
嫡男であったかどうかはっきりしません。
まあ、袁平には女の子がいたけど袁成にはまったく子供がなかった、とか、
特に兄弟順にこだわらずに相続させてたとか、事情はいろいろ考えられますが。
袁紹は生年が分かっていません。
西暦146年に、一年だけ「本初」という年号があり、袁紹の字と一致するので、
その年を生年としてみました。
袁成もあまり事跡が分からない人ですが、梁冀に信頼されていたとか、左中郎將
だったとかいう記述がありますので、子供が残せる程度の年齢で死亡しているのは確かです。
梁冀が誅殺されるのが159年なので、それ以前に亡くなっているとして、袁成の実子だとしても
つじつまは合います。
しかし146年生まれとすると、曹操より9歳も年上になってしまうので、幼馴染
で一緒に花嫁泥棒、なんて設定は使えなかったわけです。
名家の嫡男が成人以後にそんなことをするのは、いくら何でもいただけません。(笑)
二人が幼馴染だとしたら、郷里は違うので当然京師(みやこ。史書にはよくこう
表現されています)で仲良くなったということになりますが、果たして名家のぼっちゃんは
宦官の孫との付き合いを許してもらえるのかも疑問です。
まあ袁家そのものが名家の割には微妙なことやってるので、そこらへんの関係は
ほんと微妙ですが。
この生年設定でいくと病没は57歳の時のこととなり、まあ妥当な寿命という気もします。
袁隗について。
若い頃から出世して、兄よりも早く三公になったという割には、事跡があんまり
残ってない人です。
170年当時の官職はよく分かりませんが、172年に大鴻臚から司徒(三公)になってるので、
大鴻臚ということにしてあります。(ということは、この物語の時点ではまだ袁家は「三世三公」ですね)
袁赦という中常侍は、この人の伝に「宗族」と書かれて登場します。はっきりした続柄は分かりません。
袁隗は袁赦と連絡を取りつつ、うまく官界を渡っていたようです。
でもだからと言って宦官寄りというわけでもなく、袁紹が宦官を皆殺しにした時には、
積極的に協力していて、そのためか次の何進の政権でも重用されています。(この時
袁赦はもう死んでいたのか、何も記録がありません)
しかもその後の董卓政権でも地位を保っていました。袁家の威光みたいなのがあって、
董卓も無視できなかったんじゃないかと思いますが、袁紹が反董卓軍を立ち上げた時に、
一族20名ほどと一緒に殺されました。(その中に袁基もいます)
袁成も専横の振る舞いで名高い「跋扈将軍」梁冀と親しかったり、どうも「四世三公」な
袁家のやっていることは、曹操の祖父曹騰と大差がないような気がしないでもないですね。
風俗考証関係
まず鮑魚について。
タイトルを決める時にですね、「有朋自遠方來」(論語ですな)・・・うーん、かたい! けど
何か「友」とか「朋友(中国語で普通に「友達」)」とか入るのがいいなあ、
「好朋友(ハオポンヨウ・よい友達)」、「好友(ハオヨウ)」、「鮑魚(ハオユゥ・あわび)」・・・。
そうだあわびを投げさせてしまえ! と思いついたのでした。(笑)
で、この時代に「あわびの干物」を食べたかどうかなのですが。
『後漢書』に、山東からあわびを光武帝に献上したという記事がある、という記述を
ネットで見ました。
いちおう確認しようと思い、「鮑」の字で電子テキストの『後漢書』に検索かけたのですが、
残念ながら別のエピソードしか見つかりません。それは秦の始皇帝のもので、彼の遺体を都まで運ぶ時、
腐敗臭をごまかすために「鮑魚」を車に積んだという内容です。
この「鮑魚」は、どうやらあわびではない別のものらしいという話なんで、この時代、あわびのことは
別の名前で呼んでいたのかもしれません。まあでも食べていたのは確かで、海産物なので、
内陸に運ぶために干物にするのが普通なのではないかと思います。
ちなみにあわびのことを「鮑魚」というのは現代中国語です。スープの「湯(タン)」とかも。
牀について。
この時代の建築物は墓以外に残っているものがないんで、はっきりしたことが分からないんですが、
床が土間のままか、石でも敷き詰めてあるかのどっちかだろうと思います。(南方だと
高床にしてるでしょうけど)
彼らは椅子を使わず正座したりしますから、土間に直接だと何かと不都合です。
それで庶民なら筵をしいたり、身分が高いと低めの台を置いてその上に座ります。
この台が「牀」とか「榻」とかいうもので、何人か座れるような大きなものは「牀」という
らしいです。
夜はこの上に寝るので、椅子でもなければベッドでもなく、現代で言うならソファべッド
ってところでしょうか?
しかしカタカナ表記はちょっと避けたい。というわけで、そのまま「牀」と
表現しております。
「席」は座布団みたいなので、「案」は銘々膳。
何かと日本っぽい中国古代です。(っちゅーか日本が「中国文化の吹き溜まり」なんだろうけど)
用語の使い方には最後まで悩みました。「料理」とか「野菜」とか「皿」とか「椀」とか。
「食事に使うお椀状の容器」を示す漢字なんかも、あることはあるのですが、
現代のフォントにないし、いちいち解説入れなきゃなんないしで、結局使うのはやめました。
ちゃんと考証した単語と、フィーリングで使ってる中国語と、日本語の3種類が
ごちゃまぜになっているような文章になってて、どーもよろしくないな、とかも
思うのですが、こだわりだしたら古代中国語で書かなきゃいけない世界になりますし、
そんなもの書いても誰も読めないですよね。(笑)
というわけなので、笑って見逃していただけると幸いです。
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