1.はじめに
  まず讖緯とは何かについて、いくつかの側面から述べた後、後漢という時代の特徴に留意しなが ら後漢諸子の讖緯に対する態度について述べたいと思う。


2.讖緯とは何か
2.1.本質と偶有的特質
  儒家の経典である経書に対して、緯書というものがある。経が縦糸、緯が横糸を表す ことから推測できるように、緯書には経書と同様、詩緯、書緯、易緯、春秋緯といった 種類があり、経書を敷衍するこ とを本質とする。
緯書の内容は讖類と緯類に大別される。 したがって讖緯は緯書の中にある、あるいは緯書の別称であると言うことができる。 讖類は未来予言を、緯類は経書の釈義を内容とする。とは言え緯類の内容はきわめて複雑で、 哲学・宗教・天文・地理・歴史・社会制度といった多岐にわたる。それは、緯書が長期 間に、 多くの人の手によって作られた結果である。
しかし、讖緯、讖緯説と言うと未来予言的内容に目が向けられ、他の面が見落とされがちである。 儒家思想から、迷信・邪義として斥けられ、しばしば禁圧されたのも、 そのためであると考えられる。


2.2.讖緯に先行する思想
自然と人事は互いに感応し合うとする天人合一思想は中国に古代 からあった世界観である。自然現象 の中に天の意志を忖度する天人相関思想もその延長線上 にある。讖緯思想の根幹を成す祥瑞・災異の思想や、陰陽思想、五行思想もまた、天人合一 思想を基底にしている。とは言え災異思想は当初から予言的性格を帯びていたのではなかった。
陰陽五行思想と天人相関思想とを抱合させて災異思想を体系化したのは前漢の董仲舒で ある。彼は儒教国教化を勧め、君主権強化を図る一方で、大小の天変地異は君主の過ちを諌 める天意であると説き、儒教一尊理論のアンチテーゼを用意した。彼の災異説は君主の放埒を 監視する理論を内包し、現実社会のありようを問う譴責であったと言える。
しかし、やがて董仲舒の弟子の代になると、過去の悪政を断罪するのみならず、 将来の悪政をも未然に防ぐべきだとして、予知の必要が説かれ始めた。 さらに、時を同じくしていくつかの予言が 的中した(1)ことも影響し、こうして災異説は予兆説に変じていくこととなる。

*注1 例、漢の宣帝即位。目圭弘による。


2.3.讖緯を支持した権威
秦の焚書・坑儒のために、漢代初期にはほとんど儒教経典が残っていなかった。そのた め、人々に暗誦されていたものが新たに隷書で書き起こされた。これが今文と呼ばれるもので ある。一方、漢代中期に孔子宅の壁の中から見つかったとされる経典を今文に対して古文と呼ぶ。 この今文、古文は文字上の相違にとどまらず思想の上でも対立してきた。
讖緯の形成は前漢末から後漢にかけてであるとされ、今文学派のもとで発展をとげた。 前漢ではおもに、今文学派が重んじられた。讖緯を利用して前漢から政権を奪った新の王莽は、 古文を尊重したが、おなじく讖緯を拠りどころに王莽政権を倒した後漢の光武帝は、 再び今文学派を重用した。皇帝の支持を得たこともあり、この時期讖緯は思想界の主流を占め、 体制側の思想となった。
やがて古文学派も台頭し両派の対立・論争は激しいものとなるが、少なくとも後漢の 初期において、そのどちらもが、讖緯的要素を正統性の根拠に用いたということは注目に値 すると思う。


3.後漢諸子の讖緯に対する態度について
3.1.後漢とはどのような時代であったか
光武帝によって再興された劉氏漢(後漢)は、その当初 にあっては、前漢時に国学となった儒教もそれなりな学問的役割を果たし、国威も四方に広 がり、文化交流(1)もあるなど隆盛であった。
しかし一面では神秘思想が流行し、合理性を尊重する儒家思想にもそれらが抱合されて 思想は混乱していた。白虎観会議などが開かれるも、思想の 統一には到らず、混乱は次第に思想の上だけにとどまらなくなった。
辺境民族の侵入、外戚・宦官の専横、二度にわたる党錮の獄、そういった混乱の中、 次々と革命(2)が蜂起し、後漢王朝は献帝を最後に滅亡した。

*注1)例、仏教の伝来。明帝の永平十年か。
  2)最大の例は、中平元年張角の起こした黄巾の乱である。


3.2.1.鄭玄
後漢の中期ごろには、多くの学者が今文学・古文学をともに修学し、 緯書的な解釈学が儒家思想の中にも取り入れられ、同化されていった。いわば時代思想とし ての経解釈が形成されていったのである。その中でもっとも代表的なのが鄭玄という人物 である。今日残存する緯書の半分近くは彼の注釈がなされている。
小島祐馬氏の筆録『中国思想史』に、鄭玄は「讖緯五行の説を信じ、すべての解釈にこれを 混じえた」とある。彼は大きく見て時代に即応した思想を展開していたと言えるが、 安穏な生涯だったわけではなく、党錮の禍では禁固され、それ以後は隠居して世にでなかった。
鄭玄の思想は今文・古文の折衷であるが、今文学寄りであるようだ。彼の緯書解釈の動機として、 当時は緯書が孔子の述作であると広く信じられており、彼もまたそれを信じていた、 ということが上げられる。
*注1 鄭玄(127〜200) 字は康成。北海郡高密の人。はじめ第五元に 師事し、次いで馬融に師事。『毛詩鄭 箋』、『三礼注』。


3.2.2.讖緯に反発した諸子
前漢末から後漢にかけて讖緯は大いに流行し、修学の有無によ って社会的地位が左右されるまでに至っていた。しかし中には、合理精神などから讖緯に 反発・批判した学者たちもいた。その代表的な人物 が桓譚(1)、伊敏、王充(2)、荀悦、 張衡などである。

桓譚は讖緯や災異について「奇怪虚誕の事」と述べて禁絶を 要求し、光武帝が讖緯によって霊台建設 場所を決めようとするのを批判した。そのため 光武帝の怒りをかい危うく死刑に処せられかけた。
伊敏も光武帝の命により、緯書を校訂させられたが、「緯書は聖人の作る所でない。 その内容もきわ めて世俗的である」と批判して叱責された。

王充はその著『論衡』において緯書を非合理で民衆を 惑わす「虚妄の言」「神経の書」と激しく罵倒 している。王充自身が、その才能にも拘ら ず不遇であったことが、天意に疑問を抱く原因のひとつにあったと考えられるが、彼は 体系的な批判の哲学を展開し、時には孔子や孟子をも否定した。しかし、実 証的な唯物論を 展開した一方で、彼の著作に宿命論的な論理が見られるのは、王充もまた時代思想的な 讖緯の影響を受けていたあらわれであると言える。

荀悦の伝記は明らかでないが霊帝時に宮中に侍講し、『申鑑』五篇を奏上、意中を述べたと される。(『後漢書』) 。その中の一つ俗嫌に「世に称す。緯書は仲尼の作なりと」とある。これは緯書と言う 呼称が典籍上初めて見られる例であり、荀悦の叔父、荀爽が著書「弁讖」のなかで緯書を 孔子の述作とする通説を否定し、前漢末に作られたものであると論断していることを紹 介したものである。荀悦もま た彼自身の見解として、緯書は孔子の述作ではないとし、 神秘思想の蔓延る現実を厳しく批判している。
*注1)桓譚(前24〜56) 字は君山。 沛国相県の人。五経を学び、訓詁に通じた。『新論』を著したが、亡佚。
   2)王充(27〜91) 字は仲任。会稽郡上虞の人。班彪に師事。『論衡』のほかに, 『譏俗書』『政務 書』『養性書』を著したが現存しない。


3.2.3.張衡
張衡は科学思想に造詣が深く、合理主義者であった。著書『霊憲』 の中で述べられている渾天説も科学思想に立脚したものである。
彼は讖緯の予言的な面が流す社会的弊害を述べ立て、律歴、卦侯といった占侯書を無視して大衆 が讖緯に取り付かれていることを慨嘆して、その禁圧を奏請した。この奏請がそのま ま取り上げられたとは 考えられないが、讖緯流行の一方で、禁圧の動きが既にこの頃 からあったということがわかる。また、張衡は「図讖は哀帝の際に成る」と明言しており、 荀悦の説と時期を同じくしている。
その後隋の煬帝のころには、讖緯に関する書物は焼き払われ、讖緯を奉じる学者は死刑 にされるなど、厳しく禁圧された。

*注1 張衡(78―139) 後漢の文学者、科学者。南陽郡西鄂(河南省南召県)の人。 字は平子。天球儀「渾天儀」を考案し、地震計の一種 「候風地動儀」を作成、円周率の 近似値も算出した。詩賦も巧み。『二京賦』・『帰田賦』・『思玄賦』


4.まとめ・おわりに
讖緯は天人合一の思想を根底とし、神秘的な預言書としての 性格と、経書の解説書としての性格をあ わせもち、しばしば王朝交代の根拠として権威者 に利用された。後漢諸子の中には讖緯に反発する者も少なくなく、また政治上の禁圧もあ ったが、民衆レベルでの浸透の勢いをとめることはできず広く流行し、変容しつつ後の中 国思想にも影響を与えた。
前置きが長くなりすぎ、表題から少しずれてしまった。 後漢諸子たちについて、もう少し詳しく掘り 下げたかったが、資料を見つけきることがで きなかった。
時代に逆行して讖緯に反発した学者はもちろんだが、時代の潮流に乗 った学者たちの中にも、鄭玄のように気骨のある人物がいたのだとわかった。言論・思想 の自由が保障されない時代に学問を探求した 先人たちは偉大だと思う。


5.参考文献
田中麻紗巳『後漢思想の探究』2003,研文出版
安居香山『緯書』1969,中国古典新書
安居香山『緯書と中国の神秘思想』1988,平河出版社

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