卞后は魏王曹操の奥さんで、曹操は彼女をとても大切にしていた。
これは卞氏がまだ結婚する前のお話だ。


琅邪の開陽に逍遥侯という権勢家がいて、屋敷に多くの楽人や舞姫をかかえていた。
中でも特にお気に入りは、樂師の卞敬侯と歌伎の劉香香。
逍遥侯は彼らの音楽と踊りに すっかりとりこになっていて、二人の演奏がなければ飯も喉を通らないありさま。
こんな風に主人をとりこにしている二人だったが、本人たちはというと、これがお互いに、相手のとりこに なっていた。

逍遥侯は美しい劉香香を我がものにしたいと思い、ある日、宴席が終わっても劉香香を 返そうとせず、妾の一人になれと迫った。
劉香香はいつも身に付けていた宝剣を、主人の逍遥侯に突きつけた。

「だんなさま、香香は唱い女です。唱を献じることはできてもこの身を献じることできません」

こうなると、可愛さ余って憎さ百倍。ぜったいに自分のものにしてみせると逍遥侯は意気込んだ。

ところが次の日の朝、劉香香はいずこへか逐電してしまっていた。
おまけに卞敬侯の姿まで消えている。
逍遥侯は怒りのあまり倒れそうになった。


劉香香と卞敬侯は、手に手をとって南へ逃げた。
逍遥侯の追っ手に追われていたので、大通りや大きなまちでは見つかってしまうかもしれないと、細い道や小さな村を選んで通った。
そうやって逃げに逃げ、路銀が尽きてしまうころには、もうずいぶんと開陽から離れたところまできていた。

二人は唱を唱い、楽器を奏でて稼ぎにした。
生活は苦しいが、二人が一緒にいられるなら、多少の苦労はなんでもない。


2年目の春に、沛国のショウにたどり着いた。
賑やかなところで、芸を売って暮らすのに丁度良かったので、二人はここに 留まることにした。

またたくうちに月日は過ぎ、劉香香は自分にそっくりなむすめを生んだ。

「おとうさん、この子に名前をつけてあげて」

卞敬侯は喜んで言った。

「じゃあ我(わたし)の女(むすめ)だから、娥でどうだろう」

卞娥はとても聡明なむすめで、両親に似て、音楽に天賦の才を持っていた。
その舞は香香のように優雅で、楽器を奏でれば敬侯のように深い音をかもし、 加えて少女の天真爛漫さを備えていた。
両親はとても喜んだが、大切なむすめに日銭を稼ぐようなことをさせたくはないとして、 その芸を人前で披露させることは決してなかった。


けれども禍福は測れぬもので、卞娥が八歳の時、疫病がショウに蔓延した。
卞敬侯は重い病にかかり、妻と子のことを最期まで気にかけながら死んでいった。
二年目には劉香香にも病が伝染して、彼女もこの世を去ってしまった。
九歳の卞娥はみなしごになった。

まちの人々はみな自分たちのことだけで精一杯で、誰も卞娥をかまってくれるものはいなかった。
食べ物もなく飢えた卞娥は、おとうさん、おかあさんとただ泣き暮らすばかり。

ある日、夢におとうさんとおかあさんが出てきた。

「可愛い子、お前は唱も出来るし、舞も上手。芸を売って暮らしなさい」

目が覚めると二人の姿はもうなかった。
卞娥はまだしばらく泣いたが、次の日には琵琶をかかえ、歌を売りに行くことにした。

大きな木の下で、おんなのひとが何人か、子供たちと遊んでいるのを見た。
卞娥は悲しくなって、唱った。


大きな木陰は涼しそう
おかあさんたちはやさしくて
子供たちはしあわせそう
だけどあたしはみなしごで
いつもひとりぼっちなの


その声がとても悲しそうだったので、聞いた人はみな心を打たれ、餅(パン)や湯(スープ)を恵んでくれた。 小銭をくれた人もいた。
卞娥は餅を食べ、湯を飲んで、もらったお金を持つとまた道を行った。

お昼過ぎに、お金持ちそうなご主人が、犬と遊んでいるのを見た。
犬は金の首輪に銀の鈴をつけ、とても大切にされているようだった。
卞娥は琵琶を弾いて唱った。


金の首輪に銀の鈴
子犬ちゃんはとってもきれい
子猫も子犬もたのしそう
みなしごだけが ひとりぼっち


唱を聴いた人はまたまた心を打たれて、あちらは餅を、こちらは湯を恵んでくれた。小銭をくれる人もいた。
卞娥は餅を食べ、湯を飲んで、もらったお金を持つと家に帰った。

こんな風にして毎日が過ぎていった。

ある日、卞娥はまた唱を売りに行った。
ひとつの通りに出ると、おとこたちが馬や籠で行き来し、おんなたちが宝石をつけて きらびやかに飾っているのが見えた。
とても素敵な場所だと思った卞娥は、琵琶を弾いて唱った。


大きなお馬が行ったり来たり
緑の籠は四人でかつぐ
おとこもおんなもみんな笑顔で
なんて素敵なまちなのかしら


心が楽しいと声も弾んで、とても魅力的な唱になる。その唱を聞いた人は みな歩くのをやめ、馬を止め、窓を開けて卞娥を見た。
とりわけ驚いていたある老夫人が、卞娥に話し掛けてきた。
彼女はしわしわの顔をして、豪華な衣装をつけ、頭には宝石をたくさん飾っていた。

「唱っているのはどこのお嬢さんだい?」

卞娥は答えた。

「唱売りです」

「ご両親は?」

「死にました」

「まあ、じゃああなたは誰に頼って生活しているの?」

ちいさな卞娥は答えられず、ぽろぽろと涙をこぼした。
老女は自分も涙を拭きながら、言った。

「かわいそうに。あたしを母親と思ってついておいで。おいしいものを食べさせて あげられるよ」

卞娥はぱちぱちと瞬きしたが、何も言わなかった。
老婦人はちょっと考えて、言った。

「じゃあ、楽器や唱をおしえてあげるのはどうだい?」

その言葉に興味を持ち、卞娥はおおきな目をあけて、老婦人を見た。

「おばあさんも唱や楽器ができるの?」

「出来ないもんかね」

老女は琵琶をかき鳴らし、本当に唱いだした。
その演奏は卞娥に、死んでしまった両親を思い出させた。

卞娥は彼女の前に跪いて「おかあさん」と叫んだ。
老女は喜び、言った。

「おいで、おかあさんといっしょに家に帰ろう」。

こうして、九歳の卞娥にまた「おかあさん」が出来た。
おいしいものも、きれいな服もたくさん与えてもらった。
老女は本当に何でも出来る人で、卞娥に楽器や唱を教えるだけでなく、将棋や書画も 教えてくれた。


光陰矢のごとしで、卞娥は十五歳になった。
胸もふくらみ、肌もつややかになって、開花を待つばらのつぼみのような、うつくしいむすめに育っていた。

ある日、老女は卞娥にとびきりうつくしい衣装を着せ、宝石で飾った。

「むすめよ、お祝いを言うよ」

「何のお祝いですか?」

「王のだんなさまが、おまえを見初めてくださったんだ。たくさんの お金やお宝をもってきてくれたよ。だから今日、おまえはだんなさまのお召しに応じるんだ」

卞娥は見知らぬ男に売られるのだと気付いて、怒りのあまり、柱に頭をぶつけて 死のうとした。

実は老女は女郎屋のおかみで、金のなる木と思って卞娥を拾ったのだった。

卞娥がどうしても拒絶するので、最初の話は流れてしまった。
二度目の時は、塔から飛び降りようとした。
三度目は、刃物を持って自殺しようとした。

どうしても客を取ろうとしない卞娥に、ゆるゆると手なずけようと思っていた老女も手を焼いた。
なんとか客の前で歌ったり、踊ったりはするようになったのだが、決して華やかな衣装を 着ようとせず、客の前でも眉間にしわを寄せて、にこりともしなかった。

老女はこんな「疫病神」をいつまでも養っておくのは無駄だと思って、夏侯家に歌伎として売り払った。

そこで宴席に出され、曹操に見初められたというわけだ。





当たり前ですが全部フィクションです。
原文は卞娥が生まれる前がかなり長いのですが、大胆にカットしてしまいました。
唱のとこは、ちょっとリズミカルにしたかったので、意訳もはなはだしいというか、 ほとんど作った感じ。(笑)
児童文学を書いてるみたいで楽しかったです。
……それにしても、「我の女だから、娥」って……(笑)。


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