漢代の末、国は荒れて、民は流離し、田地は荒廃して、人々は生きてゆけなくなった。
各地の武装勢力は、桑の実を取って食糧にしたり、貝を拾ったりして飢えをしのいだが、中には 結局食べてゆけなくなって、そのまま解散したところもあった。
まさに食糧を手にしたものが、勝利を手にすることになったのだ。

こういった状況の中、曹操は故郷のショウに帰り、兵糧を集めようとした。
当然、ショウもまた戦乱の影響を受けて、ひどい状態になっていた。
曹操は全力で生産を発展させることで、富国強兵をはかり、民の憂いを解こうと決心した。
そこで献帝に、大々的に軍屯、民屯を推進するよう上書した。
そして自らも、ショウの地に民屯を手配し、ショウの民で田地を持たないものには、一律に 田地を与えた。
私財の半分を使って大量の牛を買い、労働力の弱い農家に分け与えもした。
人を組織して堤防などを修築し、ショウの全ての地域の水利を整えた。

曹操は、ショウの生産の状況を把握するために、毎日馬に乗って巡視をしたが、見て回るべき土地が広いために、ほとんど一日中、馬に乗ってあちらこちらを駆け回らねばならなかった。

ある日、曹操は麦畑の傍らに、一つの高い台があるのを見た。
台の上にはひとりの老人が座っていて、麦畑を監視している。
見ていると、泥で団子をこしらえ、雀が麦をついばみにくると、その団子を投げて追い払っているようだ。
老人は全身埃だらけになった曹操の姿を見て、あわれみをこめた口調で言った。

「阿瞞よ阿瞞、いつもご苦労なことだ。けれども駆け回ってあちこち 見回るよりも、わしのように台の上から遠くを望む方がよいのじゃないかね?」

曹操はその言葉を聞いて大いに悟るところがあり、老人に礼を言って、馬を返して 城内に戻った。

城に戻ると曹操はすぐに、城の西と東に土を盛って台を作るように命じた。
高さは三丈で、縦横は各三十丈、それぞれ「西看稼台」「東看稼台」と名付けた。
ふたつの台が完成すると、曹操は毎日この台に登り、各地の農耕の様子を確認した。
後には人を配置して、天気を観察させ、農業に大切な天候のことを農民に教えさせた。
こうして、ふたつの看稼台は農耕を管理する拠点となり、曹操自身も毎日 駆け回るような苦労をしなくて済むようになった。

その後、曹操は故郷を離れ、戦に明け暮れる生涯を送り、中原の統一という大業を果たした。
後代の人が曹操を記念して、東西の看稼台の上に、大悲寺と祟興寺を建てた。今このふたつの寺は 廃墟になってしまっているが、看稼台は今も尚、しっかりとそこに建っている。

*故郷に居る時に屯田して献帝に献策したって、いつの話なんだよ?
とは思いますが、遺跡に後付けされたであろう伝説にしては、ちょっといい話です。

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